2018年2月26日月曜日

藤井六段とAI/「ふってん」を移動

今日公開のテーマは「藤井六段とAI」ですが、事情により「葦の葉ブログ」と再度改名して、葦書房のサイト内に移動しました。移転の事情も概略ご説明しております。是非とも「藤井六段とAI」をご覧ください。

ところが、上記アドレスを開くと、わたしが没にした古いファイルがアップされています。何度更新しても、没ファイルが表示されます。今から出かけますので、当分修正ができませんので、このブログとWordPressに、とりあえず最新の「ふってん」を公開します。

(時間がないの詳しくは説明できませんが、正常に戻りました。3カ所に同じブログが公開されたことになりますが、そのままにしておきます。

藤井六段とAI


 本題に入る前に一言、お断りを。またもやブログ「ふってん」のサイトを移転しました。いろいろ機能の揃っている既製品のブログ(Googleが提供しているblogger)は非常に便利で使いやすいのですが、ヘッダーのキャッチコピーが消えてしまったままで、Googleに連絡をしても元に戻りません。なぜ消されたのかも事情は不明のまま。誰かが消したわけですが、そのまま使う気にもなれず、使い慣れた自社サイトの中に手製のブログを作り、こちらに移転しました。

  WordPressというプロの方々にも非常に評判の高いブログ・HP作成ソフトがあるのですが、素人にも使えそうなのでチャレンジしてみました。無料提供されているデザインを基に、かなりカスタマイズして、我ながらなかなかしゃれたブログになったと思ったのですが、保存したはずのファイルが上書きされていなかったりと、基本的な操作に何度も齟齬が生じる場面があり、無意味なところで時間を浪費することも多々ありました。不慣れなせいだとは思うものの、デザイン性よりも、簡便に使えるツールの方がいいとの結論に至りました。そこで下手の横好き精神を発揮して、自分で何種類もの素人のブログデザインを作り、あれかこれかと迷う日々を送る羽目になってしまいました。こちらは、WordPressで作成した「ふってん」ですが、2週間の無料お試しを利用して作成したものですので、39日頃には消える運命にあります。

  という事情で、頭の方がなかなか文章を書くモードに切り変わらないのですが、前回取り上げた羽生選手とちょうど同じ日に、羽生善治竜王を破り、続いて広瀬章人八段を破るという偉業を達成した中学生棋士の藤井五段を、羽生選手と同時に取り上げたいと思いつつ、ブログとしては収まりが良くないことから、前回はパスしました。今回は予定どおり更新して、藤井六段を取り上げなければと思った次第です。

  藤井六段の天才ぶりは、30年ぶりで記録更新したという昨年の公式戦29連勝で、すでに十分すぎるほどに証明されていますが、17日に、史上初の永世七冠を達成して間のない羽生竜王を破り、同日、広瀬章人八段を連続で破るという偉業を成し遂げ、あっという間に六段に昇段しました。あらためてその天才ぶりには驚嘆の一言しかありませんが、突如登場したこの天才少年は、にわか将棋ファンを一気に増やしましたね。わたしもその一人ですが、わたしの最大の関心は、15歳の少年がなぜ棋界最高位にある大ベテランを軽々と連覇するのか、その謎にあります。
  
 この謎の解明は素人には不可能ですが、敗れたベテラン勢や師匠の山田正隆七段などのコメントなどを読むと、興味がさらに広がります。コンピュータソフトのようだというのは最も分かりやすい評ですが、素人的には、藤井六段はひょっとしてコンピュータ以上の頭脳の持ち主なのではないかとも推測しています。

  藤井六段も当然のことながら将棋ソフトなどとも対戦しながら技を磨いているはずですが、山田七段によれば、藤井六段は将棋ソフトも考えつかないような手を使うとのこと。具体的には斜めにしか動かせない角と桂馬の使い方が非常にうまいということです。斜めの攻めは素人にはもとより、プロも軽視しがちで、使いにくいとのこと。縦横無尽に斜めの攻めを駆使することは、盤面を一気に支配下におくことになるであろうことは、素人にも理解できそう。山田七段は、藤井六段の差しは3次元的、立体的だとその特徴を表現しています。

  ところで、世界王者を破ったことでその並外れた能力が世界中に知れ渡った、AIを象徴する囲碁ソフトのアルファ碁は、その後さらに進化し、ルールだけを基に自ら独学するアルファ碁ゼロが開発されたそうです。しかし将棋では未だ「ゼロ」は開発されておらず、将棋ソフトは現在のところ、組み込まれている膨大なデータを基にしていますので、藤井六段が同様に膨大なデータを基に、全く未発の差し手を生み出し、時にコンピュータ以上の能力を発揮することも十分にありうるのではないかと思います。

  敗れた羽生竜王は、藤井六段(対局中は五段)との対局に当たって、江戸時代の名人が残した棋譜を参考に、新手としてアレンジを加えて対局で使ったそうですが、藤井六段はそれすらも突破したという。おそらく江戸時代の名人の差し手は、少なくとも藤井六段や現存棋士が使ったことのない手だったのではないかと思います。しかし藤井六段は過去はもとより、未来(未発、未出)をも超えつつあるわけです。藤井六段はコンピュータを超えているのではないか、あるいは藤井六段がAIそのものだと評する次第です。師匠の山田七段も、17日の連勝の後は、「つかみどころのない強さだ」といって、理論的論評の枠外に出てしまったかのような感想を述べていました。 

 ところで、江戸時代の将棋の記録も残されているとは、江戸時代もよほど将棋が盛んだったのですね。これも将棋関連の新発見の一つです。

  


2018年2月19日月曜日

羽生選手と境界

216日と17日は、日本中の目が、氷上で滑り舞う、羽生結弦選手に釘付けになっていたと思われます。わたしも偶々外に出ていたおかげで、テレビの大画面で、羽生選手の繊細でいてしかもこの上もなく流麗至極な演技を目にすることができ、深い感動に胸揺さぶられました。その完璧な演技から、誰もが傷は完治したものとばかり信じて疑っていなかったはずですが、なんと驚いたことには、負傷していた右足首はまだ完治しておらず、右足首への負担を極力避ける演技構成に変更にすることを余儀なくされた中での五輪出場であったという。

これは連覇決定後に明かされた裏事情ですが、負傷後初めて公の場に姿を現したピョンチャン到着時に語った、羽生選手の自信にあふれた言葉からも、氷上で見せたその完璧な演技からも全く想像できませんでした。世界のトップに立つ選手は、単に技術的に優れているだけではなく、自らの限界を熟知し、その限界をいかにして超えるか、その方法を考え抜き、それを超える手法を具現化する知力、心身力にも並外れた才能を持っているのではと感じ入った次第です。もちろんその成功には、的確なアドバイスをし、指導するコーチなどのスタッフの存在が不可欠であるのはいうまでもありませんが、核心となるのはやはり選手本人だろうと思います。

その後、パソコンの動画でも他の選手の演技も見ましたが、羽生選手の演技は大勢の選手の中でも何か抜きんでた特異性があるように思われます。フィギュアスケートはいつもきれいねえと思って見るだけで、何の知識もなかったので何が違うのか、うまく表現できませんでしたが、次のBusiness Journal羽生結弦、「ぶっつけ本番」で優勝の裏に知られざる「秘密」…説明不可能な事態」にその秘密が明かされていました。

 

一言でいえば、羽生選手は「男子と女子の垣根を超越した稀有な」身体的特性を有する選手だという。この特性は一目で分かるものですが、なぜ他の選手は筋肉ムキムキ気味なのかとの疑問にぶつかります。その理由は、女子フィギュアとは異なり、男子フィギュアは見かけ以上に力強さを求められる、非常に激しい競技だとのことで、男子の選手にとっては筋肉ムキムキ度を上げる鍛錬は不可欠だからとのことでした。

 

女子選手なみの羽生選手の細身は、天与のままで維持されているものなのか、節制によって維持されているものなのか分かりませんが、男女の境界を超えた身体特性を保持しつつ、男子フィギュアの世界の頂点に立った羽生選手は、やはり、ただごとではない才能の持ち主なのだろうと思います。フィギュアスケートは、数ある五輪スポーツの中でも、スポーツと芸術との境界に位置する特異な競技ですが、その境界性を自らの身体性として具現化しているのが羽生選手なのかもしれません。しかしその細身が、競技の激しさに耐えうる強度の壁にはなっていないのかと、心配にもなってきます。偉業を達成した今は、足の完治に専念し、次の五輪に備えていただきたい。五輪はやはり、選手にとっても見る者にとっても、特別の場です。  


五輪に関連して境界を超えたといえば、東京五輪・パラリンピックの引き継ぎ式の見事なパフォーマンスの数々を思い出します。引き継ぎ式があるなんて、東京五輪で初めて知りましたが、短い時間ながら、五輪・パラリンピックのエッセンスを、スポーツの境界を超える演出で強烈なインパクトを受けましたね。わたしはパソコンの動画で見たのですが、それでもその演出の斬新さと迫力は十分すぎるほど伝わり、息を呑む思いで見入っていました。


歌手の椎名林檎さんが演出したと聞き、これほどの演出の才能もあるのかと驚かされました。現代日本の、日頃はほとんど目にすることもない(わたしだけかも)、ありとあらゆるジャンルから超一流の才能を集めて舞台にしたような、そんな印象のショーでしたね。青森大学新体操部の体操の境界を超えた超絶的パフォーマンス、義足ダンサーの方々の世界を圧倒するようなダンス、非常に高度に洗練されたプロジェクションマッピング等々、現代日本の洗練されたエンターテイメントの粋を集めたような瞬間舞台でした。


日本が世界にアピールできる現代文化は、漫画とアニメしかないような風潮が濃厚につづいていましたが、この瞬間舞台は、日本の現代文化が非常に多彩であることをもしらしめたと思います。マリオやドラえもんなど古典的な漫画のキャラクターたちも登場していましたが、このキャラクターたちも、今回一気に表舞台に姿を現した多彩な才能たちによって、新たに命を吹き込まれた、そんな印象でした。 

実は椎名さんは音楽監督を務められたそうですが、残念ながら音なしの動画でした。椎名さんの他にその道では有名な方々も演出に加わっておられるとのこと。詳しくは次のリンクをご参照あれ。【リオ五輪】椎名林檎が五輪の舞台であえて使った「あの曲」その意図は2016/08/22 徳重辰典 BuzzFeed Staff, Japan     日本オリンピック組織委員会の人選なのでしょうか。この人選は委員会の最高の業績でしょうね。本番の東京五輪が楽しみです。


2/17()17時~2/20()1659

2018年2月12日月曜日

NEM流出と株価急落

/26の未明、仮想通貨取引所コインチェックから、日本円にして580億円相当のNEMという新顔の仮想通貨が流出したことが判明して以来、何やら不穏な雰囲気が世界を覆っています。具体的にいえば、580億円もの巨額のNEMが不正流出した事件とまるで連動するかのように、アメリカで株価が急落、それもリーマンショック時以上の急落だという。その影響を受けて日本を含めて世界中で株価が急落中。しかしアメリカの実体経済はかつてなく好調で、リーマンショック以上の株価急落を招く理由は見当たらない。雇用環境もかつてなく良好で、賃金水準も上昇中だとのこと。

にもかかわらず、なぜ株価だけが急落しているのか。逆の現象はしばしば発生していますが、実体経済が非常に良好な中、株価だけが急落するという現象はまず例がないはず。単体銘柄では、空売り操作で急落する例は多々発生しているはずですが、株価全体が、世界的規模で急落しているのは、空売り操作によるものではないのは明らかです。

専門家は、この株価急落の原因をあれこれ解説していますが、素人にはこじつけ的な理由づけでしかないようにみえます。わたしは、素人の単純さで、NEMの不正流出に端を発した仮想通貨の急落と株価の急落は連動しているのではないかと推測しています。しかし素人推測なので、専門家の中で、素人のこの推測を裏付けるような説を発表している人はないかしらと探していたところ、ギョッとするような記事を見つけました。

MONEY VOICENEMに掲載されていた、NEM不正流出事件直前の1/25発行のメルマガ「カレイドスコープ」からの以下の抜粋記事です。

上記カレイドスコープ(執筆者の名前はなし)の記事は『現在のビットコインはあくまで「疑似餌」です。2018年は、暗号通貨市場と株式マーケットで、連鎖的に「地獄の釜の蓋」が開く年になるかもしれません。』という予言めいた文章で始まるのですが、その直後にNEMの不正流出事件と株価の大暴落が起こり、この予言の余りの的中に身の毛のよだつ思いに襲われます。この予言は、当然のことながら明確な根拠に基づいてなされているのですが、カレイドによれば、ビットコインはヘッジファンドの配下におかれているとのこと。ヘッジファンドが投機の対象にするほどに、ビットコインの市場的価値が質量共に巨大になったことを意味しているそうですが、「暗号通貨市場と株式マーケット」が連動するに至ったのは、その結果でもあったわけです。

この両者のつながりについては、一般の専門家はあえて無視しているのか、指摘した人はいないようですが、わたしの直感的推測はどうやら当たっていたようです。NEM流出以前からビットコインは下落し始めていたそうですが、カレイドによれば、それも市場操作を企む計画的な動きだとのこと。ここまで来ると、素人にはついていくのも難しくなりそうですが、NEM流出までもが、そうした動きの一環だとは思えません。

マスコミ報道や、1/26に開いた緊急記者会見NEM社長や同社幹部と記者たちの長い長い長いやり取りを読んだだけの、確たる根拠には乏しい素人の推測ですが、わたしは、NEM流出は、コインチェック自らも絡む、やらせ犯罪ではないかと疑っています。それもコインチェック単独によるものではなく、外部から持ちかけられた犯罪ではないかと疑っています。その外部とは、ヘッジファンドのようなプロ集団ではなく、もっと素人に近い勢力です。ビットコインを頂点にした仮想通貨市場への不安感、不信感をかき立てることを最大の目的にしたものではなかと思われます。

なぜか、これもNHKを含む日本の一般マスコミではほとんど報じられていませんが、今年の1月半ばすぎに、アメリカを代表する世界的銀行JPモルガンやゴールドマンサックスなどがビットコインの売買に正式に参入することを発表したという。これらの大銀行が正式に参入するということは、ビットコインないしは仮想通貨市場が事実上これら大銀行の監視下(管理下)に置かれることを意味します。それを嫌った勢力が、ビットコイン(仮想通貨)市場の価値を貶め、有望市場ではない状況を現出させ、大銀行の参入を阻止することを狙った犯罪ではないか、というのが素人探偵の推理です。

当然のことながら、コインチェックには何らかの形で報酬は支払われたか、支払われる予定だったはずですが、おそらく想定どおりのシナリオでは事は進んでいないはず。盗んだNEM580億円の、他の仮想通貨か法定通貨への交換が完了するまでは、この犯罪は終わらないはずですが、盗んだNEMにマーカーがつけられ、交換が困難になっています。現在のところ、5億円分だけ他の仮想通貨に交換したようですが、交換に応じた男性が警察から事情聴取を受けるという事態になっています。こうした中、コインチェックは本日より、日本円の出金だけを再開しましたが、財産を盗まれた最大の被害者への補償は無期延期状態。無責任きわまりないですが、事業は継続する意向とのこと。規制がなきに等しいので、こういう事業者でも法的には何の責任も問われないらしい。

日本の仮想通貨市場は世界の約半分を占めており、アメリカ以上の市場占有率だとのことですが、裏を返せば日本はアメリカ以上に規制が甘いということです。犠牲者が出ても、規制緩和が最優先であるとの安倍政権の方針によるものだと思いますが、それが裏目に出たのが今回のNEMの犯罪ではなかったかとも思われます。これだけ巨額の資金が動く業界で、満足なセキュリティ基準もなく放置されていたのは、政府当局者の怠慢でもあったとの非難は免れないのではないか。

 ところで、ビットコイン(仮想通貨)の価値の源泉ともいうべきブロックチェーン(分散台帳)の威力は、今回のNEMの流出でわれわれ素人でも視覚的に確認することができました。全ての取引を記録するというブロックチェーンは、盗まれたNEMにマーカーを付けるという技も加わり、その動きがもらさず記録されていきます。わたしは、その画像を貼り付けたサイトで台帳の一部を見たのですが、大変な技術だとあらためて感心しました。目下のところ、個人名はすべて匿名ですが、何らかの方法で個人名を特定する機能が加われば、犯罪防止は完璧になるはずです

 ブロックチェーンは、台帳作成技術そのものが価値の源泉であるとともに、台帳を作成するという参加者による業務が投機的価値の最大の源泉になっています。これが、記帳作業を全自動化することが可能であるにもかかわらず、自動化しない最大の理由です。ビットコインは最速で作成した人が、ビットコインを入手することができるという仕組みですので、最速のコンピュータ所有者が有利になり、富の偏在を生むといわれていますが、NEMはこうした欠点をもつビットコインに対抗して生まれた仮想通貨だとのことで、普通のパソコンでも参加できる手数料方式にしたとのこと。

しかしどちらの方式にせよ、素人には訳が分からないというのが正直な感想です。ところが折も折、27日のロイター通信に、驚くべきニュースが報じられていました。

[北京7日 ロイター] - 中国政府のシンクタンク、中国社会科学院(CASS)は、各国の中銀は国際決済での仮想通貨利用を検討すべきだとの考えを示した。(中略)CASSは、国際通貨基金(IMF)か、もしくは、特定の国が主導する決済システムを提言。さらに、IMFと特定国のシステムを合わせた形態が最も実現可能だと推奨した。

 これはほぼ中国政府の方針であると考えてもいいかと思いますが、このニュースも日本のマスコミはNHKも含めて報道していません。日本では、仮想通貨に関しては、マイナスイメージを振りまくような事件については大々的に報道されますが、逆のニュースはほとんど報道されません。

 上記報道によると、中国は意外なことに、仮想通貨市場では自らが主導権を握ることは考えていないということになりますが、金融市場の管理運営は長い長い歴史的蓄積のあるプロ集団に任せる方が市場の安定的発展に資するとの判断に至ったものだと思われます。NEMの不正流出も含めて、仮想通貨をめぐる犯罪は、その技術によって引き起こされるものではなく、明確な管理者不在、発行者不在という、仮想通貨最大の特性によって引き起こされてきたわけですから、強力な権威に裏打ちされた管理者、発行者の登場は不可避だと思われます。前出のカレイドスコープは、仮想通貨が管理されることになることには猛烈に反対していますが、そもそも仮想通貨はドルを主軸にした各国の法定通貨との交換可能性によって、その価値の実質は担保されているわけですので、法定通貨を発行している通貨当局やそれに類する権威ある機関の管理を拒否するのは筋違いではないかと思います。

発行管理者が明確化された体制下で、仮想通貨による送金がごく一般的な標準になれば、振り込み詐欺の大半は消滅するはずですし、マネーロンダリングも困難になるはずです。こうした犯罪に関わっている勢力にとっては、あらゆる手段を使って阻止したい事態であるのは言うまでもありません。

実はわたしは、昨年12月に個人出版した『貨幣の謎とパラドックス―柄谷行人論・原理論編』の中で、国際的な権威ある機関の許で、世界デジタル通貨の発行を提言しています。本書は、紙本電子本を出していますが、電子本の方で、ちょうど仮想通貨を論じた最後の当たり、紙本でいうと約6ページ分が、23行ずつ改ページされるという奇妙な不具合が発生していました。読者の方は、最初の2行での改ページでもう終わったと思われて、その先は読んでおられない方もあったのではないかと思います。お詫び申し上げます。

現在は改ページの不具合は修正しております。ご購入、ご購読いただいた方には、修正した旨ご連絡いただけるようにAmazonには申請しておりますが、連絡するかどうかは、不具合の程度によるとのことでした。お詫びをかねて電子本の無料公開を予定しておりますが、葦書房のサイトで発行する「葦の葉通信」の更新時、2/16前後を予定しております。

 貨幣の謎に、柄谷行人を介して哲学的アプローチで迫ったものですが、哲学、経済とも素人ゆえに、専門家的な読みづらさはないと思います。著者本人が素人ですので、その素人の頭で理解できたレベルで、貨幣の正体を解剖したものです。是非、ご一読ください。

電子版無料
2/17()17時~2/20()1659

2018年2月5日月曜日

阪大、京大の出題ミス

前回取り上げたセンター試験の出題不備に続いて、今回は昨年実施された阪大、京大での出題ミスを取り上げます。実は規模こそ小さかったものの、20182月に実施された、東大大学院工学系研究科の物理学の入試問題でもミスがあったという。東大院工学系の場合は学部とは異なり、受験者数が100名余りと少ない上に、出題者が採点中にミスに気づき、この問題を選択した受験生全員を正答としたので、実害は発生しなかったという。外部からの指摘を受ける前に出題者自身が気づいた東大は、辛うじて面目は保たれたとはいえ、受験生の人生を大きく左右する入試の出題ミスは重大事である。東大、京大、阪大という、日本を代表する旧帝大のトップスリーの大学で、相次いで入試問題でミスが発生したばかりか、いずれも物理の問題でのミスである。とても偶然だとは思えない。出題ミスを誘う、何か共通した事情があるはずである。

その事情とは、国公立大学においては文系のみならず、理系においても基礎学問の軽視策が激烈に進んでいたのではないか。理系では、構造改革時、例えば文学部とその傘下にあった学科が全消滅したような消滅は発生してはいないはずではあるが、理系の基礎理論分野は縮小、削減され、産業化、すなわちカネ儲けに直結しそうな形での学部、学科編成がなされたのではないか。大学の予算配分に競争原理が導入されたばかりか、年々その縛りが厳しくなる中、短期のうちに目に見える成果を求められれば、成果としては示しようもない基礎理論分野はイヤでも淘汰されざるをえない。

この間、産学連携も進み、双方にとっては世界が拡がり、プラスに作用した面も多々あったことと思われるが、即応用可能な研究ばかりが学問ではないことも事実である。というよりも、直接的には産業化とは直結しないような基礎学問、基礎理論の探求こそが、多様な応用力を育む最上の胞衣(エナ)である。ノーベル賞を受賞した日本人学者の体験談は一人の例外もなく、この事実をその身で実証しておられるばかりか、日本の研究環境の悪化を憂える言葉としても同趣旨の警告を発しておられる。建物も基礎が杜撰、貧弱ならば、使い物にはならないことは子供にも分かる道理であるが、現在の日本では、こんな単純な道理すら通用しなくなっている。


今回のトップスリー3大学での物理の出題ミスは、技術立国日本の基礎がきわめて脆弱化していることを、如実に示したものだと見るべきだと思う。日本の文部行政が基礎研究環境を破壊してきたのであるが、文科省は自らの責任は全く感じていないらしく、出題ミスが発生した場合の通報窓口を設置しただけである。文科省が主導した大学の大再編策は1990年代末頃から始まったが、20年近くも経てば、基礎理論も完璧に押さえていた教授陣も第一線からは退いてしまっているはずである。時を同じくして、トップスリー3大学で出題ミスが発生したのも、その防波堤がなくなった結果ではないかと思う。まさかとは思うが、トップスリー大学までもが入試問題の作成を、予備校に依頼するという事態に至らぬことを切に願うばかり。

2018年1月29日月曜日

センター試験「ムーミン問題」

大学入試センター試験の地理Bの問題で、北欧三国に関連する童話アニメを使った問題 が出されたが、問題としての適格性をめぐって多々疑問の声が上がっている。上記リンクの問題を見ると、北欧3国の内、スウェーデンは同国のアニメと言語の組み合わせが例として示されており、残り2国のノルウェーかフィンランドかを問う設問になっている。正解はムーミンとBの言語の組み合わせ(フィンランド)だとのことであるが、ムーミンの舞台がフィンランドであるかかどうかは、非常に曖昧である。

 批判に対するセンターの反論その1、ムーミンの背景の平らな土地の広がりはフィンランドの特性を示しているという。しかし非常に小さなアニメ画像の80%以上は、ムーミンのキャラクターたちによって占められており、出題者がこの背景をフィンランド的特性を示すものとして出したとは思えない。もし仮に、背景も解を導き出す手がかりとすべく出題したのであれば、キャラクターたちをもっと小さく描いて、背景の特性が明確に判別できるような場面を採用したはずである。背景からもフィンランドであると分かるとの反論は、苦し紛れのこじつけだとしか思えない。しかも、ノルウェーにもムーミンの背景図のような平らな地域は存在するとの指摘も専門家から出されている。

 センターの反論その2、センターはアニメには描かれていない原作者の著作物まで持ち出して、ムーミン谷はフィンランドだと強引に主張している。原作者の著作物にそういう記述があるにせよ、地理の知識を問う問題で、ムーミンの原作者の著作物を読んでいなければ解けない問題など論外ではありませんか。この問題が勃発した当初、在日フィンランド大使館は、ムーミン谷の場所は架空の場所であり、フィンランドとは特定されていないという趣旨の見解を発表しています。当のフィンランド大使館自身が架空の場所と認定したわけですが、これは、日本も含めた世界中のムーミン愛好家のムーミン観ではないかと思う。

 しかし批判がある一方で、良問だといって問題を擁護する人たちもいる。(鈴木貴博氏ムーミンの炎上入試問題が不適切どころか「良問」である理由 尾木直樹氏尾木ママ、センター試験の“ムーミン問題”に持論「いわゆる良問」) 確かにヴァイキングがノルウェイであることはほぼ誰もが知っているので、アニメの方は消去法でムーミンしか選択肢はないとはいえ、消去法でしか選択不能であるというのは、設問そのものの根拠の曖昧さを露呈したものである。 

言語の選択問題では、鈴木氏によれば、付されたイラストがヒントだという。Aのイラストはノルウェーでは有名な善良なる妖精だという。しかしこのイラストが妖精であると判別できるのは、地理とは無縁な特殊な知識を要する。事実、鈴木氏はノルウェーの妖精を描いた漫画を読んでいれば、このイラストがノルウェーの妖精だと分かると、ヒントのタネ明かしをしてくれているが、地理的知識とは全く無縁の、漫画、アニメ推奨論でしかない。またBは、付されたイラストがトナカイなので、トナカイとなればフィンランドと関連づけられるので、言語はBしか選択肢はないとのこと。しかし特別な眼鏡をかけて見ないと、あの動物がトナカイだとは、誰も思わないはず。仮にトナカイだと判断しても、トナカイはノルウェーにも生息している。

 (参照:トナカイは北極圏から亜寒帯にかけて生息しているシカの仲間で、グリーンランドやノルウェー、フィンランドなどの北ヨーロッパやロシアのシベリア地方などに分布している。 また、アラスカやカナダなど、北アメリカ寒帯地方にも分布していて、北アメリカのものはカリブーとも呼ばれている。「動物図鑑 トナカイ」より)

また、例示されているスウェーデン語に付されたイラストは、どう見てもスウェーデンの特性を表したものではなく、ごく一般的な買い物風景を描いたものであり、イラストに託された意味には一貫性はない。仮に深読みしても、託された意味に一貫性のないイラストを解のヒントにせよというのは、出題者のご都合主義でしかない。
 
 一方、尾木氏は、歴史的経緯からスウェーデン語とノルウェー語とが似ていることが分かれば、フィンランド語はそれらとは異質なBしか選択肢はないとして、これは洞察力を問う良問であると賛辞を送っている。高校地理では、世界の言語の分類は履修範囲に入っているようなので、これは一見、傾聴に値する指摘にも思われるが、なぜムーミンなどのアニメを登場させなければならないのか、この疑問は解消されない。しかもムーミンの「正解」は、消去法でしか選択できないという致命的な欠陥がある。正解の根拠が曖昧な問題が、なぜ良問だと評価されるのか、全く理解不能である。 

なぜこのような問題が作られたのか。はっきりしていることは、アニメや漫画を推奨する時代の風潮に無原則的に迎合する姿勢と、その卑俗さを隠蔽するためか、北欧圏の言語に触れる機会のない日本の高校生にとっては、正面からは対応困難な、比較言語学的知識を問う問題を組み合わせてみたといったところだと思われる。 

尾木氏は、思考力、洞察力を問う問題は、これからの入試の主流になるので、この手の問題は増えていくだろうとも指摘していますが、本当に応用力に富んだ思考力や洞察力は、基礎的知識の基盤なしには生まれえない。

 国公立大学では文学部などが廃止され、その傘下にあった地理学科も消滅している。構造改革と称して、基礎的知識涵養の環境を破壊するという、基礎的知識に対する異常な軽視策が断行された。この破戒策も、基礎的知識よりも時代の要請に即応した人材教育をせよとの文科省の方針によるものであった。理工系でも大幅な再編成がなされたようであるが、理工系は文系のような消滅は発生していないはずである。最近は、一旦廃止された文学部や関連学科の一部はひそかに復活しているようであるが、地理学科までは復活していないのではないか。小中高で教える教員の人材教育はどうなっているのかも不明であるが、大学入試センターの問題も、そういう大学から選抜された人々によって作成されているわけである。根拠の乏しい、曖昧な問題が今後も増えていくのだとしたら、由々しき事態である。

2018年1月22日月曜日

『火花』と『コンビニ人間』

新年早々、20年ぶりぐらいに小説を読んだ。手近にあった又吉直樹著『火花』と村田沙耶香著『コンビニ人間』、どちらも芥川賞受賞作品である。昔は、実に律儀に芥川賞受賞作品には必ず目を通していたが、その習慣も絶えて久しく、芥川賞作品はもとより、小説とよばれるジャンルの作品そのものを手にとる機会は完全に消滅してしまっていた。生活環境が激変し、小説を読む暇もなければ、そんな気分にもなれなかったからである。過酷な生活環境に置かれた人間にとっては、この世の中がどうなるのかという切実な疑問に直接答えてくれそうな言葉や、こうした疑問のヒントになりそうな言葉を、無意識のうちに求めるものである。明日をも知れぬ、不安定な生活を余儀なくされている非正規労働者には、小説を買う余裕などはないという現実的な制約もありますが、それ以上に、気分的に小説を手に取る欲求そのものが湧いてこないはずである。少なくとも、わたしはここ20年ほど、手近に話題の小説があっても、手に取る気分にすらならなかった。

ところが今年の新年早々、ふと『コンビニ人間』を手にとって、読み始めることになった。読み始めると意外にも面白く、あっという間、数時間で読み終えてしまった。芥川賞受賞時には、この作品を紹介した記事などには目を通していたので、作者自身の体験をもとに書かれて作品であることは承知していたが、体験をはるかに突き抜けた作品に仕上がっていることには驚いた。コンビニでアルバイトをしていた主人公が、ついにはコンビニと一体化した、文字通りの「コンビニ人間」と化すに至るまでを描いた作品であるが、細部のリアルさと、人間がコンビニシステムの一部と化してしまうという超常的結末とが、絶妙なハーモニーを醸し出している不可思議な作品である。

我々世代の昔の常識では、機械やシステムの駒の一つと化した労働者は、人間疎外の苦を背負わされた悲劇的存在だと考えられてきたが、『コンビニ人間』の作者は、システムの一部と化すことが、個として生きる苦痛から解放してくれる契機となりうるばかりか、無上の歓喜をもたらしてくれる場であるとさえ描き出している。もともと主人公は、世間的な常識からかなりはみ出した感性の持ち主であったことが、小鳥の死骸をめぐる幼い頃の主人公の、世間的には受け入れ難い冷酷さを示すエピソードによって語られているが、このエピソードの唐突で不自然な強引さには抵抗を感じるのも事実である。が、このエピソードの成否は別にしても、主人公が世間的な価値観からははみ出した者であることは十分に描かれており、世間的には日々疎外感を感じている人間にとっては、どこに救いを求めるべきなのか、この問いがこの作品の隠されたテーマともなっている。

作者の出した答えは、コンビニシステムと完全に一体化して生きること、であった。世間的には個として疎外されている人間は、労働の現場で個であること、人間であることを放棄し、システムの一部と化すこと(疎外されること)で、解放を手にしたということである。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるという、数式を思い出させる結末である。しかも底抜けに明るい疎外賛歌でもある。今となっては、昔の疎外論は牧歌的でさえあったと思わせる作品である。

『コンビニ人間』をあっという間に読み終えてしまったので、もう一冊ぐらい読もうかと手に取ったのが『火花』であったが、こちらは読み終えるまでかなり時間がかかってしまった。『火花』はお笑い芸人が著者であることも話題になり、新聞なども大きく取り上げられていた。新聞で目にした、お笑いの世界を舞台にした、若者の成長物語であるとの紹介文が頭に残っていて、そのつもりで読み始めたのであるが、「成長物語」とは全く無縁の世界が描かれている。むしろアンチ成長物語であるとさえいえる作品である。というよりも、この作品も、お笑いという特殊な世界を舞台にしているものの、『コンビニ人間』同様、世間的価値観との間合いの取り方に悩む若者を描いており、古くてなお新しいテーマを踏襲しているその古典的手法に、むしろ驚きを誘われたほどである。

『火花』の表向きの主人公は、徳永という名の「僕」であるが、実質的な主人公は、「僕」より4歳年上の売れない芸人神谷だともいえる。神谷は売れない芸人ながら、世間的価値観からは完全に突き抜けたような自由放埒ともいえる生活を送っているが、その生き方そのものが、世間的価値観の縛りからは自由にはなれない僕にとっての憧れの対象となっている。加えて、神谷が折りに触れては語る非常に論理的に筋の通った芸談や芸人論は、おそらくどんな書物にも書かれていない至上の言葉として僕を魅了する。僕にとっての神谷は、世間的価値観の対極にある神のような存在として、憧れとともに呪縛ともなっている。

神谷の存在抜きには『火花』の世界は成立しないが、神谷の存在の基本は、非常に観念的な言葉で構築されたものであり、この作品の面白さも読みにくさもそこに起因する。お笑いの世界を観念論的に描いたという意味でも希有な作品だと思われるが、後半で徐々に神谷の世界にも破綻がしのびよってくる。売れない芸人でありながら、同棲する女からの貢ぎだけでは生活できないほどの、野放図な浪費を重ね、莫大な借金に姿をくらまさざるをえなくなる。そしてついに最終局面へと突入。

1年ぶりぐらいに世間に姿を現した神谷を前にした僕は、神谷の異変に直面させられる。神谷は男の姿のままで、巨乳手術を受けていたのである。借金まみれで逃げていた神谷は、その手術に要した費用はどうやって調達したのだろうか。この素朴な疑問に対する説明は一切ない。そのご都合主義は不問に付すとして、先を続けると、神谷は、おっさんの巨乳というその異様さを最大の売りにして、再びお笑いの世界に復帰する魂胆であったという。僕は神谷に対して、一切の躊躇なしに、世間的価値観をもって諭すのであるが、この巨乳化した神谷の姿は、反世間的価値観の敗北とともに、神谷の観念論的な世界観の崩壊をも容赦なく露呈させた。これほど卑俗な手法でしか、お笑いへの復帰を考えつかなかった神谷の無惨な姿が描かれているのであるが、僕は、神谷の呪縛から抜け出しつつも、なおも神谷に対しては、かつてのように僕の神としての復活の可能性を見たいとの思いを残しつつ、この作品は幕を閉じる。

『コンビニ人間』『火花』、全く異なる背景をもつ若い作家が、ともに世間的価値観との齟齬を作品の基本テーマに据えていることには、正直驚いた。両書ともある意味では、小説の王道をゆく作品であるが、その齟齬の回収手法には大きな違いのあることは、むしろ好ましい。日本の文学の未来は決して暗くないとも思わせられた久々の読書体験ではあったが、今後も積極的に小説を読むかと問われれば、なかなかその気ににはなれないなあというのが正直なところである。