2018年1月29日月曜日

センター試験「ムーミン問題」

大学入試センター試験の地理Bの問題で、北欧三国に関連する童話アニメを使った問題 が出されたが、問題としての適格性をめぐって多々疑問の声が上がっている。上記リンクの問題を見ると、北欧3国の内、スウェーデンは同国のアニメと言語の組み合わせが例として示されており、残り2国のノルウェーかフィンランドかを問う設問になっている。正解はムーミンとBの言語の組み合わせ(フィンランド)だとのことであるが、ムーミンの舞台がフィンランドであるかかどうかは、非常に曖昧である。

 批判に対するセンターの反論その1、ムーミンの背景の平らな土地の広がりはフィンランドの特性を示しているという。しかし非常に小さなアニメ画像の80%以上は、ムーミンのキャラクターたちによって占められており、出題者がこの背景をフィンランド的特性を示すものとして出したとは思えない。もし仮に、背景も解を導き出す手がかりとすべく出題したのであれば、キャラクターたちをもっと小さく描いて、背景の特性が明確に判別できるような場面を採用したはずである。背景からもフィンランドであると分かるとの反論は、苦し紛れのこじつけだとしか思えない。しかも、ノルウェーにもムーミンの背景図のような平らな地域は存在するとの指摘も専門家から出されている。

 センターの反論その2、センターはアニメには描かれていない原作者の著作物まで持ち出して、ムーミン谷はフィンランドだと強引に主張している。原作者の著作物にそういう記述があるにせよ、地理の知識を問う問題で、ムーミンの原作者の著作物を読んでいなければ解けない問題など論外ではありませんか。この問題が勃発した当初、在日フィンランド大使館は、ムーミン谷の場所は架空の場所であり、フィンランドとは特定されていないという趣旨の見解を発表しています。当のフィンランド大使館自身が架空の場所と認定したわけですが、これは、日本も含めた世界中のムーミン愛好家のムーミン観ではないかと思う。

 しかし批判がある一方で、良問だといって問題を擁護する人たちもいる。(鈴木貴博氏ムーミンの炎上入試問題が不適切どころか「良問」である理由 尾木直樹氏尾木ママ、センター試験の“ムーミン問題”に持論「いわゆる良問」) 確かにヴァイキングがノルウェイであることはほぼ誰もが知っているので、アニメの方は消去法でムーミンしか選択肢はないとはいえ、消去法でしか選択不能であるというのは、設問そのものの根拠の曖昧さを露呈したものである。 

言語の選択問題では、鈴木氏によれば、付されたイラストがヒントだという。Aのイラストはノルウェーでは有名な善良なる妖精だという。しかしこのイラストが妖精であると判別できるのは、地理とは無縁な特殊な知識を要する。事実、鈴木氏はノルウェーの妖精を描いた漫画を読んでいれば、このイラストがノルウェーの妖精だと分かると、ヒントのタネ明かしをしてくれているが、地理的知識とは全く無縁の、漫画、アニメ推奨論でしかない。またBは、付されたイラストがトナカイなので、トナカイとなればフィンランドと関連づけられるので、言語はBしか選択肢はないとのこと。しかし特別な眼鏡をかけて見ないと、あの動物がトナカイだとは、誰も思わないはず。仮にトナカイだと判断しても、トナカイはノルウェーにも生息している。

 (参照:トナカイは北極圏から亜寒帯にかけて生息しているシカの仲間で、グリーンランドやノルウェー、フィンランドなどの北ヨーロッパやロシアのシベリア地方などに分布している。 また、アラスカやカナダなど、北アメリカ寒帯地方にも分布していて、北アメリカのものはカリブーとも呼ばれている。「動物図鑑 トナカイ」より)

また、例示されているスウェーデン語に付されたイラストは、どう見てもスウェーデンの特性を表したものではなく、ごく一般的な買い物風景を描いたものであり、イラストに託された意味には一貫性はない。仮に深読みしても、託された意味に一貫性のないイラストを解のヒントにせよというのは、出題者のご都合主義でしかない。
 
 一方、尾木氏は、歴史的経緯からスウェーデン語とノルウェー語とが似ていることが分かれば、フィンランド語はそれらとは異質なBしか選択肢はないとして、これは洞察力を問う良問であると賛辞を送っている。高校地理では、世界の言語の分類は履修範囲に入っているようなので、これは一見、傾聴に値する指摘にも思われるが、なぜムーミンなどのアニメを登場させなければならないのか、この疑問は解消されない。しかもムーミンの「正解」は、消去法でしか選択できないという致命的な欠陥がある。正解の根拠が曖昧な問題が、なぜ良問だと評価されるのか、全く理解不能である。 

なぜこのような問題が作られたのか。はっきりしていることは、アニメや漫画を推奨する時代の風潮に無原則的に迎合する姿勢と、その卑俗さを隠蔽するためか、北欧圏の言語に触れる機会のない日本の高校生にとっては、正面からは対応困難な、比較言語学的知識を問う問題を組み合わせてみたといったところだと思われる。 

尾木氏は、思考力、洞察力を問う問題は、これからの入試の主流になるので、この手の問題は増えていくだろうとも指摘していますが、本当に応用力に富んだ思考力や洞察力は、基礎的知識の基盤なしには生まれえない。

 国公立大学では文学部などが廃止され、その傘下にあった地理学科も消滅している。構造改革と称して、基礎的知識涵養の環境を破壊するという、基礎的知識に対する異常な軽視策が断行された。この破戒策も、基礎的知識よりも時代の要請に即応した人材教育をせよとの文科省の方針によるものであった。理工系でも大幅な再編成がなされたようであるが、理工系は文系のような消滅は発生していないはずである。最近は、一旦廃止された文学部や関連学科の一部はひそかに復活しているようであるが、地理学科までは復活していないのではないか。小中高で教える教員の人材教育はどうなっているのかも不明であるが、大学入試センターの問題も、そういう大学から選抜された人々によって作成されているわけである。根拠の乏しい、曖昧な問題が今後も増えていくのだとしたら、由々しき事態である。

2018年1月22日月曜日

『火花』と『コンビニ人間』

新年早々、20年ぶりぐらいに小説を読んだ。手近にあった又吉直樹著『火花』と村田沙耶香著『コンビニ人間』、どちらも芥川賞受賞作品である。昔は、実に律儀に芥川賞受賞作品には必ず目を通していたが、その習慣も絶えて久しく、芥川賞作品はもとより、小説とよばれるジャンルの作品そのものを手にとる機会は完全に消滅してしまっていた。生活環境が激変し、小説を読む暇もなければ、そんな気分にもなれなかったからである。過酷な生活環境に置かれた人間にとっては、この世の中がどうなるのかという切実な疑問に直接答えてくれそうな言葉や、こうした疑問のヒントになりそうな言葉を、無意識のうちに求めるものである。明日をも知れぬ、不安定な生活を余儀なくされている非正規労働者には、小説を買う余裕などはないという現実的な制約もありますが、それ以上に、気分的に小説を手に取る欲求そのものが湧いてこないはずである。少なくとも、わたしはここ20年ほど、手近に話題の小説があっても、手に取る気分にすらならなかった。

ところが今年の新年早々、ふと『コンビニ人間』を手にとって、読み始めることになった。読み始めると意外にも面白く、あっという間、数時間で読み終えてしまった。芥川賞受賞時には、この作品を紹介した記事などには目を通していたので、作者自身の体験をもとに書かれて作品であることは承知していたが、体験をはるかに突き抜けた作品に仕上がっていることには驚いた。コンビニでアルバイトをしていた主人公が、ついにはコンビニと一体化した、文字通りの「コンビニ人間」と化すに至るまでを描いた作品であるが、細部のリアルさと、人間がコンビニシステムの一部と化してしまうという超常的結末とが、絶妙なハーモニーを醸し出している不可思議な作品である。

我々世代の昔の常識では、機械やシステムの駒の一つと化した労働者は、人間疎外の苦を背負わされた悲劇的存在だと考えられてきたが、『コンビニ人間』の作者は、システムの一部と化すことが、個として生きる苦痛から解放してくれる契機となりうるばかりか、無上の歓喜をもたらしてくれる場であるとさえ描き出している。もともと主人公は、世間的な常識からかなりはみ出した感性の持ち主であったことが、小鳥の死骸をめぐる幼い頃の主人公の、世間的には受け入れ難い冷酷さを示すエピソードによって語られているが、このエピソードの唐突で不自然な強引さには抵抗を感じるのも事実である。が、このエピソードの成否は別にしても、主人公が世間的な価値観からははみ出した者であることは十分に描かれており、世間的には日々疎外感を感じている人間にとっては、どこに救いを求めるべきなのか、この問いがこの作品の隠されたテーマともなっている。

作者の出した答えは、コンビニシステムと完全に一体化して生きること、であった。世間的には個として疎外されている人間は、労働の現場で個であること、人間であることを放棄し、システムの一部と化すこと(疎外されること)で、解放を手にしたということである。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるという、数式を思い出させる結末である。しかも底抜けに明るい疎外賛歌でもある。今となっては、昔の疎外論は牧歌的でさえあったと思わせる作品である。

『コンビニ人間』をあっという間に読み終えてしまったので、もう一冊ぐらい読もうかと手に取ったのが『火花』であったが、こちらは読み終えるまでかなり時間がかかってしまった。『火花』はお笑い芸人が著者であることも話題になり、新聞なども大きく取り上げられていた。新聞で目にした、お笑いの世界を舞台にした、若者の成長物語であるとの紹介文が頭に残っていて、そのつもりで読み始めたのであるが、「成長物語」とは全く無縁の世界が描かれている。むしろアンチ成長物語であるとさえいえる作品である。というよりも、この作品も、お笑いという特殊な世界を舞台にしているものの、『コンビニ人間』同様、世間的価値観との間合いの取り方に悩む若者を描いており、古くてなお新しいテーマを踏襲しているその古典的手法に、むしろ驚きを誘われたほどである。

『火花』の表向きの主人公は、徳永という名の「僕」であるが、実質的な主人公は、「僕」より4歳年上の売れない芸人神谷だともいえる。神谷は売れない芸人ながら、世間的価値観からは完全に突き抜けたような自由放埒ともいえる生活を送っているが、その生き方そのものが、世間的価値観の縛りからは自由にはなれない僕にとっての憧れの対象となっている。加えて、神谷が折りに触れては語る非常に論理的に筋の通った芸談や芸人論は、おそらくどんな書物にも書かれていない至上の言葉として僕を魅了する。僕にとっての神谷は、世間的価値観の対極にある神のような存在として、憧れとともに呪縛ともなっている。

神谷の存在抜きには『火花』の世界は成立しないが、神谷の存在の基本は、非常に観念的な言葉で構築されたものであり、この作品の面白さも読みにくさもそこに起因する。お笑いの世界を観念論的に描いたという意味でも希有な作品だと思われるが、後半で徐々に神谷の世界にも破綻がしのびよってくる。売れない芸人でありながら、同棲する女からの貢ぎだけでは生活できないほどの、野放図な浪費を重ね、莫大な借金に姿をくらまさざるをえなくなる。そしてついに最終局面へと突入。

1年ぶりぐらいに世間に姿を現した神谷を前にした僕は、神谷の異変に直面させられる。神谷は男の姿のままで、巨乳手術を受けていたのである。借金まみれで逃げていた神谷は、その手術に要した費用はどうやって調達したのだろうか。この素朴な疑問に対する説明は一切ない。そのご都合主義は不問に付すとして、先を続けると、神谷は、おっさんの巨乳というその異様さを最大の売りにして、再びお笑いの世界に復帰する魂胆であったという。僕は神谷に対して、一切の躊躇なしに、世間的価値観をもって諭すのであるが、この巨乳化した神谷の姿は、反世間的価値観の敗北とともに、神谷の観念論的な世界観の崩壊をも容赦なく露呈させた。これほど卑俗な手法でしか、お笑いへの復帰を考えつかなかった神谷の無惨な姿が描かれているのであるが、僕は、神谷の呪縛から抜け出しつつも、なおも神谷に対しては、かつてのように僕の神としての復活の可能性を見たいとの思いを残しつつ、この作品は幕を閉じる。

『コンビニ人間』『火花』、全く異なる背景をもつ若い作家が、ともに世間的価値観との齟齬を作品の基本テーマに据えていることには、正直驚いた。両書ともある意味では、小説の王道をゆく作品であるが、その齟齬の回収手法には大きな違いのあることは、むしろ好ましい。日本の文学の未来は決して暗くないとも思わせられた久々の読書体験ではあったが、今後も積極的に小説を読むかと問われれば、なかなかその気ににはなれないなあというのが正直なところである。